ダニーのラボ

ダニーが学んだことを書きます。ここに書かれることはダニー個人の見解であり、ダニーの所属先の見解とは一切関係ありません。

20240408_研究について

 ◆私はなぜ研究者になったか

 

 私が研究者になろうとしたのは、自分が何者かにならないといけないと焦っていて、やりたいことが特に見つからないことを隠していたのだと思う。妥協の産物だった部分があるのだ。絵描きや漫画家、映画監督なども面白そう、かっこいいなと思った時期もあったが、「それでは食べていけないんじゃない?」と親に止められた。もっとも、その一言で簡単に折れてしまったので、その道で食っていこうとしなかったのは正解だったかもしれない。

 では何を研究するのか?テーマはなかなか決まらなかった。面白い授業はたくさんあったし、面白い本を書いている人もたくさんいる。どれもキラキラして見えたが、一つに絞れなかった。最終的には卒論でなし崩し的にテーマを決め、そのことについて自分を納得させたことを思い出す(もちろん、そのテーマにも面白さと刺激があったからこそ博士まで続けられた)。研究者になったのは、テーマに没頭したからではなく、研究という行為自体へのあこがれが先行していたのだ。

 私は研究者の何にあこがれていたのか。一言でいうと、それは「確信に基づいて行動すること」に尽きると思う。たくさん勉強し、データを集め、これだと思う答えにたどり着いたら、他人や権威を恐れずにその答えに基づいて発言し、行動する。そういう生き方はかっこいい。重要なのはそうした態度で生きるということであって、それができるなら、他の仕事でも構わなかったかもしれない。

 

 ◆研究者と大学の実態

 

 とはいえ、いざ研究の道に入ってみると、そこにも業界というものがあって、そこでのルールや慣習というものがある。研究というのはある程度進めば分析・考察では済まなくなり、社会運動になっていくのだ。そこには政治があり、策謀がある。縄張りや権威もあり、恨みも妬みもある。もっとも、しがらみのない社会など、どこにもないのかもしれない。まっすぐな気持ちで発言したり行動できるかどうかは、個人やその人が置かれた環境に左右される。研究者になれば好きなことが言えるというものではないのだ。

 何が研究者を縛るのか。お金はとても大きな要素だ。研究者が研究を続けていくためには、いや、生活していくためには、お金が必要だ。お金は血税からもらう部分と、授業料としてもらう部分とがある。いずれにしても大学に勤める研究者は、国民からもらったお金で生活している。

 もう一つは人口だ。それぞれの分野が生き残り、その分野の妥当性や権限を主張したり、保障するためには、ある程度の研究者人口を維持する必要がある。研究者は後継者を育て続けなければ自分たちの業界を維持できない。もちろん、これは研究業界に限った話ではなく、モノづくり業界も金融業界も同じだろう。

大学というのは研究者がお金と後継者を得るための仕組みだった。学生に授業を提供して、その対価としてお金を受け取る。そして、研究方法を伝授して自分たちの分野の若手後継者として育て上げる。これが学界にとっての大学の機能だったわけだ。だから、ほとんどの大学の教員は、今日に至るまで、ある分野の研究方法を学生に教えるということを一番の目的に授業を展開してきたように思う。

 しかし、社会の様相は大きく変わってきた。いまどき、研究者を志して大学に入学する人などほんの一握りで、大半の人にとって、大学は企業に就職するための通過点に過ぎない。こんなことは半世紀も前から言われてきたことだ。こうした状況になれば、大学の意味が問い直される事態になることは当たり前だ。医歯薬や工学部、法学部、教員養成系の学部など、職業と直結する資格を付与する学部をべつとすれば、社会人になってから大学で学んだ知識が活かされることなんて稀なことだろう。いや、上記のような学部のカリキュラムも、現場レベルの仕事の仕方を教え切れているかというと、それはかなり怪しい。研究と実務の乖離はかなりはなはだしい状況だろう。

 そういうことを続けてきたらどうなるかというと、社会から「大学で学んだことは何の役にも立たない」、という評価を受けることになる。大学はいまや、大企業に就職するためにこれくらいの学力があるということを証明するだけの「お墨付き」付与機能しかない。もっと人口が減り、大学に入るのがより簡単になると、こうしたお墨付き機能さえも発揮できなくなる。すでにそういう大学は増えつつあるだろう。文字通り、危機的状況であるといえる。

 こうした事態に直面していれば、もはや精神を健全な状態に保つのも難しいのではないか、という気もしてくる。自分自身が依って立つものがゆらいでいるからだ。他の研究者はどうやってアイデンティティを保っているのだろうかと気になってくる。事務職員さんに聞くところによれば、若手の先生たちはとにかく論文を書きまくって業績を上げ、より安定した地位へと昇り詰めていこうという気持ちが強い、とのことだった。なるほど、研究が信用に値するものなら、それでいいかもしれない。だが、実際はどうだろうか。

 

 ◆科学はいかに正当化されているのか

 

 研究とは、もっともシンプルに定義すれば、世界の真理を探究する知的営為である。研究という行為の果てに、人類は世界の全容を把握し、それを完全に理解することができるのではないか。

昔は、こうしたことが素朴に信仰されていたように思う。もしかしたら現代においてもそうかもしれない。しかし、科学的知識というのは覆されるものなのだ。特に自然科学の分野では、従来の見方が間違いだと分かった途端、これまで積み上げてきた知識が無に帰してしまうということが起こる。

間違いが正されるのは良いことではないかと思うかもしれない。しかし、目下進行している様々な研究プロジェクトもまた、世界認識についての虚構を生み出しているに過ぎないとしたら?そんなはずはない、と言い切ることが誰にできるだろうか。

 人類の知識が正しいかどうかを最終的にテストするのは、自然界の淘汰圧だ、という議論がある。科学的知識の進化論的理解である。どういうことかというと、その知識を持った人類が絶滅せずに生き延びているとすれば、その知識は正しかった、ということになるはずだ。そうすると、いま生きている人類が生み出している科学的知識は、何世代も経ってから答え合わせされる、ということになる。ずいぶん気の長い話だ。しかも、間違っていたことが分かった頃には後の祭りなのだ。

 そんな科学がどうやって現代社会で地位を保っているのだろうか。現代科学の正当性は、実験・観察に基づかなければならないという合意と、ピアレビューによって支えられている。ピアレビューは分野を同じくする専門家同士で、新たに発見したことが正しいかどうかを判定するという仕組みだ。研究者は各分野で組織する学会という集団に所属し、各学会の中で論文の編集委員会を組織する。学会は研究者から論文を募集する。投稿された論文に対し、編集委員たちが中心になって査読者を差配し、査読者はその論文の妥当性とインパクトを見極める。その見極めに合格すれば論文は学会が刊行する雑誌に掲載され、世の中の人が広くアクセス可能な形で公開される。

こうした仕組みが各分野で確立されてきたのは20世紀も後半になってからだ。ある程度の研究者人口を確保できている分野なら、ピアレビューはうまく機能するだろう。だが、人数が少なくなると、こんな仕組みはまったく回らない。研究者同士は顔見知りになり、論文の書き手と読み手が一つの共同研究プロジェクトに同席しているという状況になる。こうなると、距離を置いて研究成果の妥当性を議論することは難しくなってしまう。また、研究者が少ないと余裕がなくなり、レビューに時間を割けなくなってくる。ピアレビューは一部の学界でしか効果を発揮しえないだろう。

 

◆科学者の世界で出世するには

 

 科学者の中で業績はどのように評価されているのだろうか。科学の成果は、それが学界に及ぼすインパクトの大きさで評価される。そして、そうした成果をたくさん生み出している科学者ほど偉大である、ということになる。これを数値化しようとして、たくさんの論文を書いている人ほど、そして、その論文が他の人にたくさん引用されている人ほど偉い、という指標が作られるようになった。たくさん論文を書いている人ほど大学で職を得やすく、昇進しやすい。自分が書いた論文が引用される回数が多いと、その分だけ大学で職を得やすく、昇進しやすい。

 しかし、論文の本数やインパクトは分野によってまったく事情が変わってくる。その理由は研究方法が分野によって異なっているためだ。本数やインパクトファクターの限界についてはよく言われていることだし、また気が向いたときに書こうと思う。有田正規(2021)『学術出版の来た道』岩波書店 という本に簡潔にまとめられていることでもあるので、私がいう必要もないだろう。

 ここで重要なことは、大学の教員が大学の授業で社会の役に立たないこと(=研究、すなわちオレたちの業界で食っていくための知識)しか教えないのは当たり前のことで、それは、学生が就職や将来のことを考えるための知識や機会を提供することが、大学の教員にとって、少なくとも短期的には何のメリットもないからだ。むしろ研究以外のこと(教育や社会貢献)に時間を割けば割くほど、出世からは遠ざかってしまう。

 そもそも、研究業界にしか身を置いたことのない者が、その他の業界について知る由もないのだから、教えようとしても教えられないと言った方が妥当かもしれない。そういうわけで、大学というのは変わることができずにいるのだと思う。(つづく)