ダニーのラボ

ダニーが学んだことを書きます。ここに書かれることはダニー個人の見解であり、ダニーの所属先の見解とは一切関係ありません。

20240430_「蓮は泥より出でて泥に染まらず」

 ◆業界と自分は別

 

 蓮は不浄の池で美しい花を咲かせます。と、以前同僚の先生と訪問したレストランで、料理人の方がおっしゃっていました。 

 大学も学会も自分たちの勢力を広げたり生き残ることしか考えていない。まっすぐ自分の道を歩みたいです。私はそんな感じで、店長にこのブログに書いているようなことを申し上げたわけです。

 つい1週間前のことです。いやはや、今振り返ると、「自分だけは潔癖だ、間違っていない」と主張するのは傲慢だったかも、とも思います。

 それで、店長がおっしゃったのは記事タイトルのフレーズでした。店長はご自身のお仕事に誇りを持っていらっしゃる。でも、自分がいる業界はといえば、好ましいことばかりではない、というのです。

 もしも泥沼のような環境に住んでいても、自分の気持ちの持ち方次第で、一点の曇りもない蓮の花のような仕事ができる。

 

 ◆よい友を、よい師を持て

 

 なるほど。だが私は逆の言葉も知っています。同じ穴の狢(むじな)。類は友を呼ぶ、といった言葉です。友達の影響力は絶大で、たとえば公衆衛生学にネットワーク論を応用した研究だと、肥満の人の友達は肥満である確率が高いといった知見もある。社会ネットワーク論は一時夢中になって読みました。

 さて、また初期仏教の話になりますが、「善友性(善友を持つこと)」は、仏道に入る「兆し」として重要視されています。善き友とはけっこう広い意味で、自分を善なる方向に導いてくれる人々のことを指します。同い年の友人でもよいし、学校の教師でも親でもよい。いちばん想定されているのはお寺の修行僧かな、と思いますが。

 教師と友人を同じカテゴリに入れてしまうのは興味深い。先日、Bさんと話していて面白いなと思ったのは、小さい子どもには言うことを聞かせようとして指示を出しても聞いてくれないのだということです。Bさんにはお子さんがいて、その子はお母さん(Bさんの奥さん)のいうことは聞かない。でも、Bさんのいうことならなんでも聞いてくれる。なぜかというと、Bさんは子どもの指導者ではなく、友だちのように接しているからだとか。友だちの頼み事なら、聞いてあげたくなるもの。これを聞いて、私はとても面白いなと感じて、またこのことについて探求してみたいと思っているところです。

 ともあれ、よい友を持つ人は人格を磨きよい人生を歩める、ということです。逆もしかりでしょう。つまり、悪い友人がいたら、その人に影響されてしまうのです。

 

 ◆所属する組織にこだわらなくてOK

 

 よくよく思い出すと、先述の店長はこういうこともおっしゃいました。自分には30年くらい年上の師匠がいる。あなたも学の師匠ではない、人生の師匠と出会われますように、と。

 いま学の師匠ではない人生の師匠に出会う場は稀です。大学の中では、ほぼ出会えないでしょう(笑)。私はこのブログの最初の記事に書いた、A先生やBさんといった素敵な人たちと出会うことができました。私はフィールド系の研究者なので、調査と称して、いろんな場所に出向いてきたのがよかったのだろうと思います。

 ただ、学部生のころ、大学院進学を考える学生のために教員陣が企画した説明会が印象に残っています。大手企業で働く院卒の先輩が「人文系の院を出ておくと自分の世界ができるので、企業に就職しても組織や業界の論理に絡めとられなくなりますよ」という話をされていました。まさか専業の研究者になってこのことを思い出すとは思いませんでしたが(笑)。

 以上まとめますと、業界とか自分の所属する組織とかを超えて、自分が尊敬でき、導いてくれる人を探し、出会うことはとても大事だな、と。そうであればこそ、泥沼のような集団の中でも曇りのない判断をすることが可能となっていくのかもしれません。そういう生き方には、シビれますね。

 私は、心の中ではブッダが師匠です。だがゴータマ・ブッダはもういないわけですし、残念ながら日本のお坊さんはブッダの教えを知らない。私はほとんど本からしか人生を学べなかったわけなのですが、最近ようやく自分より世の中のことを分かっているように思える人と出会い、その師匠たちとの議論から自分の道を探しているところです。

20240429_捨てる勉強法

 読書の仕方もそうだし、自分がどういう分野の研究をするか選ぼうとしている若者にもいうのだが、「好きなこと、楽しいこと」を追求するタイプの勉強もあるし、「自分がいま苦しい思いをしていて、どうしたらそこから解放されうるのか」を探求するタイプの勉強もある。

 後者を言ってもピンと来ない人がけっこういる。例を挙げると、上野千鶴子氏や落合恵美子氏などが展開するフェミニスト社会学はその典型。

 私は落合氏の『21世紀家族へ』というめっちゃ面白い本を読んで、氏のファンになってしまった。この本については授業でも紹介しているし、いろんな人にぜひ読んでもらいたい。家族のことで悩んでいる人がいたら心が楽になるはずだ。

 この本は「なぜ私は主婦なのだろう」という問いかけから始まる。主婦としてさまざまに理不尽な経験をしているが、それがどうにも理解されないし、言語化できない。そうしたモヤモヤからフェミニズムも始まったし、この本の著者もそうした気持ちが大きな動機となって、やがては家族史研究を先導する存在となっていくわけだ。

 20世紀の家族は、①男性が賃労働、女性が家事労働に就くという性別役割分業、②子どもを軸とした情緒的な絆、③硬直的な父系社会である、④核家族である、という特徴を持っている。

 こうした家族は「伝統的」とみなされがちだが、落合氏は著書の中で、こんな家族像は伝統的でも典型的でもなく、20世紀半ばという時代にたまたま広がった家族構造のパターンでしかないことを描き出した。それ以前の家族というものは、時代・地域・身分などによってもっと多様だったし、しかも柔軟性をもっていたのだ。江戸時代の東北地方のとある農村では5年以内に2割くらいの人が離婚していて、同時代のイギリスより何倍も離婚率が高かったという議論も出てくる。

 本の内容紹介になってしまうので、このへんにしておこう。落合氏の研究を、私は勝手に「捨てる型」の研究と呼んでいる。伝統とか慣習といわれてきたものが、よくよく調べてみると、ほんの数十年しか歴史がないような軽薄なものでしかないことを見破る。そして、そこから自由になる。

 苦しみの正体を知ることは、自由の第一歩だ。私がこの本から学んだことは、そういうことだ。社会の仕組みは絶対的なものではない。それは変えられるし、放っておけばそのうち勝手に壊れもする。私たちが生きる世界は、そういう程度のものから作られているのだ。

 私は高校生のとき、たまたま親に勧められた本を読んで初期仏教のファンになった。以来、知識なんて死んだらぜんぶ放棄しなければならないので、「身に着ける」ための知識に虚しさを感じるようになった。むしろ様々な偏見にまみれた世俗の知識の正体を見破ることで、自分を「武装解除」していき、身軽な心になっていくための勉強をすることに意義を感じるようになった。そういう勉強もあるのだということを若い人に知ってもらいたい。

 まあそうはいっても、所詮俗物なので、おもしろいと思った本はなにも考えずに基本的に買ってしまうし、知ること自体を楽しむ勉強も続けている。だが、たとえば家が火事にでもなって、いままで買いためた全部の本が燃えてしまったら、それはそれで身軽になるだろうな、という気持ちも大事ではないかと思う。知識なんてその程度のものだと思っておけばいい。

20240428「思い出だけではつらすぎる」

 そういうタイトルの歌があって、正直、全体として何を言ってるかは理解できない。しかし、部分部分でまばゆいばかりのかっこいいフレーズがある。そういうわけで気に入って、よく聴いたり歌ったりしていました。

 ふと思い立ってこの詞について検索すると、自分自身がこれから出会う新たな人に向けたメッセージではないか、と解釈しているサイトがありました。これはかなり納得のいくものに思えます。

 このヒントを得て、私はこの歌が、「大人になるってどういうこと?」という問いかけを世の中のみんなに発しているのではないか、と勝手に思いました。

 どこで読んだのだか。ネット記事で、年配のアーティストか誰かが「最近の会話の中で、未来を展望する話題よりも、昔を回顧する話題のほうが多くなってきた」と話しているのを見つけました。

 いやはや、おじさんの武勇伝語りは聞くに堪えないものです。私は20代の頃にさんざん年上の人から武勇伝を聞かされてきて、もうお腹一杯になりました。自分が今後若い人に対して同じことはやりたくないなと思うばかりです。

 話が逸れました。私は、大人になるということが、賢くなって、そして分をわきまえることだと思っていました。

 いいえ、本当はそんな風に思いたくはなかったし、それが大人になるということなら、大人になんかなりたくないと思っていた。しかし、まわりの年上の人たちからそのように説き続けられると、人生そんなものなのかな、と思い込んでしまう。

 「さすがにこの年になったらわかるだろ、世の中そういう風にできてるから仕方ないんだって」こういうふうに言う人には、いろいろしんどいことがあって、だんだん冒険しなくなって、つい閉塞的な状況に自分から行ってしまうんでしょうね。「ふつうにIQが平均値以上の人なら、30超えりゃわかるもんだよ」とまで言われたことがあって、なんて暗い未来だろうと思いました。

 でもずっとフレッシュなままでい続けたいし、そうしたっていいじゃないですか。

 もうアホでけっこうですよ。気の持ちようですよ、問題は世の中じゃなくて自分自身の気の持ちようなんだよ。そういうメッセージを勝手にこの歌から受け取って、また今日からがんばれそうだなと思った次第です。

20240409_1年生の初回授業、何を話すか

 困ったことになった。1年生向けの講義初回を準備しているのだが、何を話していいかが分からなくなった。いや、去年と同じことを話すことは当然できるのだが、まったくもって上滑りというか、腹に力が入らない空虚な感じになってしまう。

 昨年まで、最初に何を話していたかというと、「入学おめでとう。大学は高校と違うんだからしっかり意思をもって勉強しなさい。この授業もちゃんとしないと単位は出せないですよ」という叱咤激励的なことだったみたいだ。

実につまらん。こんなことを聞いてちゃんとできるやつは初めからちゃんとしている。いきなり授業内容から話し出すか、とも思ったが、リハーサルがどうもうまくいかない。うーむ、驚いた。

考えてみる。そもそも新入生は大学になんかに入学なんてしてきて、どうするつもりなんだろう。まあ卒業して企業に入るのが目的とすると、それまでの4年間は完全に浮いてしまい、じつに空虚な時間だ。適当に遊んでやり過ごすのか。それにしても、年間100万円もの授業料はほとんどお金をドブに捨てるようなもので、あまりに無駄が多い。いっそ高校からいきなり企業に就職できるようになったほうが学生にも社会にもいいことづくめではないだろうか。

オチがつかない。学生たちがすでにやりたいことを持っていて、それに向かって自己研鑽するために大学に来ているはずだ、ということを前提とすれば、こんなしんどい話はせずに、楽ちんで授業できるのだ。だがそんなことはまったくの幻想だ、ということを認めた瞬間になにもしゃべれなくなってしまう。

 切り替えてみよう。大学全入時代なのだから、大学を出ないと始まらないというのもまた然り。こうした状況が将来的に崩れ去るかどうかは、いま現在入学してきた学生にはあまり関係がないことでもある。なんだか意味は分からないけど、とにかく大学を卒業しないといけない。

だとすれば、この浮いた4年間をどうやって充足するのかが問題になる。遊び惚けようが、バイトに明け暮れようが、ガリ勉しようが、何をしてもよい。4年間という空き時間をどう過ごすか、トータルでデザインするのはある意味大きな訓練でもある。さまざまなことにがむしゃらにチャレンジして、自分の能力や関心の見極めをする。

卒業後、その人の人格が、特定の企業組織の一メンバーに回収されてしまうか否かということは、この4年間をターニングポイントとして大きく変わる。それは言い過ぎかな。目覚めるには、いつでも遅すぎることはない。でも、若いうちの方がいいだろうな。

そういうことに気づくために、大学や授業になにができるか、だ。うーん・・・やはり大学の外にいる時間は長くした方がいいように思うが(笑)。あかん。。。

20240408_研究について

 ◆私はなぜ研究者になったか

 

 私が研究者になろうとしたのは、自分が何者かにならないといけないと焦っていて、やりたいことが特に見つからないことを隠していたのだと思う。妥協の産物だった部分があるのだ。絵描きや漫画家、映画監督なども面白そう、かっこいいなと思った時期もあったが、「それでは食べていけないんじゃない?」と親に止められた。もっとも、その一言で簡単に折れてしまったので、その道で食っていこうとしなかったのは正解だったかもしれない。

 では何を研究するのか?テーマはなかなか決まらなかった。面白い授業はたくさんあったし、面白い本を書いている人もたくさんいる。どれもキラキラして見えたが、一つに絞れなかった。最終的には卒論でなし崩し的にテーマを決め、そのことについて自分を納得させたことを思い出す(もちろん、そのテーマにも面白さと刺激があったからこそ博士まで続けられた)。研究者になったのは、テーマに没頭したからではなく、研究という行為自体へのあこがれが先行していたのだ。

 私は研究者の何にあこがれていたのか。一言でいうと、それは「確信に基づいて行動すること」に尽きると思う。たくさん勉強し、データを集め、これだと思う答えにたどり着いたら、他人や権威を恐れずにその答えに基づいて発言し、行動する。そういう生き方はかっこいい。重要なのはそうした態度で生きるということであって、それができるなら、他の仕事でも構わなかったかもしれない。

 

 ◆研究者と大学の実態

 

 とはいえ、いざ研究の道に入ってみると、そこにも業界というものがあって、そこでのルールや慣習というものがある。研究というのはある程度進めば分析・考察では済まなくなり、社会運動になっていくのだ。そこには政治があり、策謀がある。縄張りや権威もあり、恨みも妬みもある。もっとも、しがらみのない社会など、どこにもないのかもしれない。まっすぐな気持ちで発言したり行動できるかどうかは、個人やその人が置かれた環境に左右される。研究者になれば好きなことが言えるというものではないのだ。

 何が研究者を縛るのか。お金はとても大きな要素だ。研究者が研究を続けていくためには、いや、生活していくためには、お金が必要だ。お金は血税からもらう部分と、授業料としてもらう部分とがある。いずれにしても大学に勤める研究者は、国民からもらったお金で生活している。

 もう一つは人口だ。それぞれの分野が生き残り、その分野の妥当性や権限を主張したり、保障するためには、ある程度の研究者人口を維持する必要がある。研究者は後継者を育て続けなければ自分たちの業界を維持できない。もちろん、これは研究業界に限った話ではなく、モノづくり業界も金融業界も同じだろう。

大学というのは研究者がお金と後継者を得るための仕組みだった。学生に授業を提供して、その対価としてお金を受け取る。そして、研究方法を伝授して自分たちの分野の若手後継者として育て上げる。これが学界にとっての大学の機能だったわけだ。だから、ほとんどの大学の教員は、今日に至るまで、ある分野の研究方法を学生に教えるということを一番の目的に授業を展開してきたように思う。

 しかし、社会の様相は大きく変わってきた。いまどき、研究者を志して大学に入学する人などほんの一握りで、大半の人にとって、大学は企業に就職するための通過点に過ぎない。こんなことは半世紀も前から言われてきたことだ。こうした状況になれば、大学の意味が問い直される事態になることは当たり前だ。医歯薬や工学部、法学部、教員養成系の学部など、職業と直結する資格を付与する学部をべつとすれば、社会人になってから大学で学んだ知識が活かされることなんて稀なことだろう。いや、上記のような学部のカリキュラムも、現場レベルの仕事の仕方を教え切れているかというと、それはかなり怪しい。研究と実務の乖離はかなりはなはだしい状況だろう。

 そういうことを続けてきたらどうなるかというと、社会から「大学で学んだことは何の役にも立たない」、という評価を受けることになる。大学はいまや、大企業に就職するためにこれくらいの学力があるということを証明するだけの「お墨付き」付与機能しかない。もっと人口が減り、大学に入るのがより簡単になると、こうしたお墨付き機能さえも発揮できなくなる。すでにそういう大学は増えつつあるだろう。文字通り、危機的状況であるといえる。

 こうした事態に直面していれば、もはや精神を健全な状態に保つのも難しいのではないか、という気もしてくる。自分自身が依って立つものがゆらいでいるからだ。他の研究者はどうやってアイデンティティを保っているのだろうかと気になってくる。事務職員さんに聞くところによれば、若手の先生たちはとにかく論文を書きまくって業績を上げ、より安定した地位へと昇り詰めていこうという気持ちが強い、とのことだった。なるほど、研究が信用に値するものなら、それでいいかもしれない。だが、実際はどうだろうか。

 

 ◆科学はいかに正当化されているのか

 

 研究とは、もっともシンプルに定義すれば、世界の真理を探究する知的営為である。研究という行為の果てに、人類は世界の全容を把握し、それを完全に理解することができるのではないか。

昔は、こうしたことが素朴に信仰されていたように思う。もしかしたら現代においてもそうかもしれない。しかし、科学的知識というのは覆されるものなのだ。特に自然科学の分野では、従来の見方が間違いだと分かった途端、これまで積み上げてきた知識が無に帰してしまうということが起こる。

間違いが正されるのは良いことではないかと思うかもしれない。しかし、目下進行している様々な研究プロジェクトもまた、世界認識についての虚構を生み出しているに過ぎないとしたら?そんなはずはない、と言い切ることが誰にできるだろうか。

 人類の知識が正しいかどうかを最終的にテストするのは、自然界の淘汰圧だ、という議論がある。科学的知識の進化論的理解である。どういうことかというと、その知識を持った人類が絶滅せずに生き延びているとすれば、その知識は正しかった、ということになるはずだ。そうすると、いま生きている人類が生み出している科学的知識は、何世代も経ってから答え合わせされる、ということになる。ずいぶん気の長い話だ。しかも、間違っていたことが分かった頃には後の祭りなのだ。

 そんな科学がどうやって現代社会で地位を保っているのだろうか。現代科学の正当性は、実験・観察に基づかなければならないという合意と、ピアレビューによって支えられている。ピアレビューは分野を同じくする専門家同士で、新たに発見したことが正しいかどうかを判定するという仕組みだ。研究者は各分野で組織する学会という集団に所属し、各学会の中で論文の編集委員会を組織する。学会は研究者から論文を募集する。投稿された論文に対し、編集委員たちが中心になって査読者を差配し、査読者はその論文の妥当性とインパクトを見極める。その見極めに合格すれば論文は学会が刊行する雑誌に掲載され、世の中の人が広くアクセス可能な形で公開される。

こうした仕組みが各分野で確立されてきたのは20世紀も後半になってからだ。ある程度の研究者人口を確保できている分野なら、ピアレビューはうまく機能するだろう。だが、人数が少なくなると、こんな仕組みはまったく回らない。研究者同士は顔見知りになり、論文の書き手と読み手が一つの共同研究プロジェクトに同席しているという状況になる。こうなると、距離を置いて研究成果の妥当性を議論することは難しくなってしまう。また、研究者が少ないと余裕がなくなり、レビューに時間を割けなくなってくる。ピアレビューは一部の学界でしか効果を発揮しえないだろう。

 

◆科学者の世界で出世するには

 

 科学者の中で業績はどのように評価されているのだろうか。科学の成果は、それが学界に及ぼすインパクトの大きさで評価される。そして、そうした成果をたくさん生み出している科学者ほど偉大である、ということになる。これを数値化しようとして、たくさんの論文を書いている人ほど、そして、その論文が他の人にたくさん引用されている人ほど偉い、という指標が作られるようになった。たくさん論文を書いている人ほど大学で職を得やすく、昇進しやすい。自分が書いた論文が引用される回数が多いと、その分だけ大学で職を得やすく、昇進しやすい。

 しかし、論文の本数やインパクトは分野によってまったく事情が変わってくる。その理由は研究方法が分野によって異なっているためだ。本数やインパクトファクターの限界についてはよく言われていることだし、また気が向いたときに書こうと思う。有田正規(2021)『学術出版の来た道』岩波書店 という本に簡潔にまとめられていることでもあるので、私がいう必要もないだろう。

 ここで重要なことは、大学の教員が大学の授業で社会の役に立たないこと(=研究、すなわちオレたちの業界で食っていくための知識)しか教えないのは当たり前のことで、それは、学生が就職や将来のことを考えるための知識や機会を提供することが、大学の教員にとって、少なくとも短期的には何のメリットもないからだ。むしろ研究以外のこと(教育や社会貢献)に時間を割けば割くほど、出世からは遠ざかってしまう。

 そもそも、研究業界にしか身を置いたことのない者が、その他の業界について知る由もないのだから、教えようとしても教えられないと言った方が妥当かもしれない。そういうわけで、大学というのは変わることができずにいるのだと思う。(つづく)

20240406_日本人にとってのお酒とは

 ◆酔うことを前提とする社会

 もう誰か調べて答えを出しているのではないか、とも思うのだが、日本人はなぜこんなに酒好きなのだろうか。もっとも、酒が嫌いな民族というのは思いつかない。しかし、日本におけるお酒事情は、海外の他の地域の人々にとってのそれとはけっこう違っているようだ。

 プレジデントオンラインで、ポール・クリステンセン氏という文化人類学者へのインタビュー記事があり、そのタイトルには「日本は世界一お酒にだらしない国」とある。クリステンセン氏はアメリカの大学教員であるが、学生時代に日本に留学したことがあり、その後、アメリカの大学院に戻って日本の飲酒慣行について博士論文をまとめた(Christensen, Paul A. “Japan, Alcoholism, and Masculinity: Suffering Sobriety in Tokyo”)。

 お酒の飲み方についての日米比較をすると、たとえば、電車の中で泥酔して寝ている人はアメリカにはいない。また、酔った人の吐しゃ物を駅員さんが迅速に処理する道具や仕組みが整っている状況もおかしいという。日本は、人々が酔うことを前提に社会がつくられているようだ、と。他方で、アメリカの場合は、酔って道を歩いていると逮捕されてしまう。また、人前で泥酔することは、その人の弱みやだらしなさを見せてしまうことになる。

 

 ◆飲みニケーション

 多くの女性や若者から忌避されつつ、いまだに滅亡していないと思われるサラリーマンの慣習。お酒の席では「無礼講」。宴会は上司も部下も関係なくふだんの仕事の鬱憤晴らしをする場である。職場ではタテマエ上の話しかしないくせに、宴席でだけは本音をこぼす。しかし、翌朝には、「酒の席でのことだから」と、きれいさっぱり忘れて、なかったことになる。酒席というのは、あたかも日常の権力関係と切り離された(いや、実際には地続きなのだが…)「無縁」の空間のようでもある。「酔う」ということには、人を無縁化する作用があるのではないだろうか。「所詮は酔った人の行ったことだ、水に流そう」というふうに。もちろん、時代が下るにつれてその作用は確実に衰えているものの、未だに日本人の慣習に残っているように思える。

 

 ◆酔いの文化

 どこで読んだか忘れたのだが、睡眠不足で頭がぼんやりした状態というのは、酒に酔っている状態とよく似ているらしい。頭がぼんやりしていると、夢か現かの境界があいまいなることがある。ここで想起されるのは、能の入門書にかかれた鑑賞指南である(『マンガでわかる能・狂言誠文堂新光社)。能は鑑賞しながら眠くなってもいいし、寝てしまってもかまわない。鑑賞中の浅い眠りは、人を夢か現かわからない世界へといざなう。これは能の主旨である異界との俗世との接続という状況を導く。まどろんでいるときに私たちは外界からのエネルギーを受信するのかもしれない。酔いは神々のいる異世界とつながっている状態で、それを導くのは眠りでも酒でも構わない。そういうことなのだろうか。

20240405_素の自分を生きる

◆学校が社会を悪くしてきた

 3月の末に、ある支援学校のA先生と久々にお会いし、近況についてお互いに話をした。心がスッとして大変よい時間を過ごすことができた。思えば2021年の4月にA先生と出会ったことが、私の考えを根本的に変え始めたのだと思う。そのとき先生はべつの高等支援学校の講師でいらっしゃった。

 たしか初めてお会いした時、先生は「学校こそが社会を悪くしている原因なのだ」と指摘した。私は高校の先生がそんなことをおっしゃるのか!と、ぶったまげてしまった。実は先生は、もともと塾経営、NPO事務などを歴任し、最終的に「たまたま拾われて」学校の先生になったそうだ。一般的な教員のキャリアとは違っていて、先生になりたいからなった、というわけでもないので、考え方も当然違っているのだ。

 私はその後、何度もA先生とのところに伺い、お話をお聴きした。当時から私は、「大学教員の本分は研究だ」と思っており、正直、教育にはあまり興味が持てなかった。しかし、授業数が多く、「学生への手厚い支援」を売りにしている大学に勤めておれば、おのずと教育と向き合う時間は多くなる。A先生は、ちょうど「教員にならん」としていた私に、新しい時代の教育思想を教えてくれる先生だった。お会いするたびに何時間もお話を聞いていた。

 このまえA先生とお話しして再確認したのは、次のようなことだ。近代教育は国民を軍人および工場労働者に仕立て上げるための仕組みであり、学校はそのための装置として作られたものだ。戦後80年を経たいまも、当然この事実は変わらない。これまでにたくさんの教育改革が行われてきたようだが、学校はいまでも子どもたちに集団生活のルールを身体に刻み込むための装置でありつづけている。そうした状況にいれば、心理的に不調をきたす子どももいて当然である。そして学校は、そうした子どもたちが社会に出て活躍するための保障を現場レベルでやりきれているとはいえない。

 高等教育はどうか。小中高と勉強を頑張って、大学を出て大企業に入るというのが、いまだに定まった経路と認識されている向きがある。大企業は、いまだに大卒という資格によって志望者を選考するときく。それが事実とするならば、大企業をめざす若者にとって大学に入ることにはメリットがある。しかし、大企業に入れば安泰という社会は、とうに失われているはずだ。大学を卒業すれば将来安泰、などというメッセージをいまだに大学が発しているとすれば、それは詐欺ではないか?

 

 ◆「就社」は幸福か

 

 本当は若者がそうした状況をいちばん深刻に受け止めているはずだ。「近頃の新入社員は3年で辞める」といわれる。その理由として、人事組織改革コンサルタントの坂井風太氏は、心理的安全性とキャリア安全性を挙げている。キャリア安全性とは、この職場にいて自分の市場価値を高めることができるか、将来この会社がつぶれたときに自分は他社に移るなどしてサバイバルできるかどうかの判断する基準である。上司や先輩社員が無能にみえるとき、仕事が自分自身のキャリアップにつながらないと感じたとき、若手社員は辞めてしまう。それは、まったくもって筋の通った判断だと思う。

 大学は変化している社会情勢に合わせて変わるべきか否かを、いまだに決めかねているように見える。とある小学校の先生から伺ったことだが、せっかく初等中等教育を変えようと努力しても、大学は相変わらず筆記試験の結果で学生の合否を決める(いまや推薦入試が多くなり、そうともいえなくなっているのだが)。これでは教育は変わらない、と。また、キャリア教育および支援では、会社に就職し働くための慣習やマナーを教え、それでよしとする。

 それが悪いわけではない。それだけではダメなのだ、と思う。自分の会社がつぶれてもクビになっても、どうにか生き抜くということ。究極を言えば、そのことを考えなければならないのだ。

 そして、もっと根本的には、そもそも大企業で働く大人たちが本当に幸せなのかどうか、ということを問わなければならない。大人というものは、自分の暮らしに幸せを感じていないのに、自分と同じ道へと若者を誘いたがる。どうみても結婚生活が楽しくなさそうなのに、子どもや身近な若者に「結婚はまだなの?」などと尋ねる大人がいる。私はそうした人に出逢うたび、大きな違和感を覚える。それと同様に、自分が会社でしんどい思いをしているのに、若者たちも自分たちと同じように会社員になるのだ、と信じて疑わない大人たち。これはもはや信仰の域に達しているのではないだろうか。

 若者がこうした状況下で生きることに希望を見出すことは難しいと思う。現代社会で生き抜くためには、自分を殺しながら会社の言いなりになって働き、お金をもらうしかない。大人たちはしんどそうだが、それを自分たちに薦めてくるということは、生きていくってそういうことなんだな、と自分に言い聞かせる。

 

 ◆タテマエに生きることをやめる

 

 経済史家の安富歩氏は『生きるための日本史』の中で、日本人の立場主義を批判している。立場主義とは、語弊を恐れずに言えば「タテマエに生きること」だと解釈している。本音とは違うけど、上司に言われたから、先生に言われたから、こうするよりほかない。上官がいうから、気は進まないが捕虜を射殺するしかない。与えられた立場を守り、その仕事を全うすれば、生活を維持することができる。こうした生き方は、中世後期に集落が形成され、各家に村の役が与えられたことを端緒とするらしい。その後、長らく「家」を守ることが日本人の美徳だったが、近代に入り、徴兵の対象が家単位ではなく個人単位になると、「家」ではなく「立場」を守る時代へと移行する。

 こうした立場主義は長らくの間、日本社会を支配してきたが、2011年3月に起きた福島の原発事故をきっかけに、多くの人々が立場主義の限界に気づくことになった。こうしたやり方を続けていると個人は誰も幸せになれないし、日本も地球環境も崩壊してしまう。立場主義は、人々の気づきによって早晩消え去るだろうというのが安富氏の見立てだ。

 

 ◆ばかばかしい立場主義

 

 そもそも私たちはなぜ会社に入ろうとするのか。それは安心して暮らしていくための手段であり保険であるように思う。個人の力は弱く、人生の苦難(災害、不況、事故、病気などいろいろある)を一人で乗り越えていくのは大変だ。だからこそ組織の仲間入りをして、みんなでその波をいっしょに越えていこう。そういう仲間づくりの手段が、じつは就活なのではないだろうか。そうした組織(=企業)に入るのは一つの重要な生存戦略だ。

 しかし、そうした企業とて、もはや安泰ではない。だから今後、私たちはいろんなところに仲間をつくって、一つの組織がつぶれたら別の組織に移る、とか、企業とは別の形の仲間を増やすことが、必要になるのではないだろうか。そういう時代にあって、自分を偽り特定の立場を守り続けるような生き方は、もはやバカバカしいともいえる。立場主義の崩壊は、大企業が安泰ではなくなり、社会が流動化したことにも起因している。

 おじさんたちのコミュニケーションは名刺交換から始め、肩書と職務内容だけを自己紹介して終わる。立場主義を守りつづけ、定年まで会社に勤めあげたおじさんたちは、地域コミュニティのなかで居場所をつくることに大いに苦戦する。もう渡せる名刺はない。自分がよって立つものは会社であり肩書であったのだ。それを失うと、どのように生きていけばいいのかが途端にわからなくなり、他人と関係を結ぶことができなくなる。立場がないとはまさにこのことをいうのだ。

 建前の自分を育てる生き方を、いいかげん、やめにしませんか?そう仰るのが、Bさんだ。Bさんは、建前の自分をアバターと呼び、アバターを育てるような生き方を「しんどいのでやめにしてはどうか」と薦める。

 BさんはNPOの中間支援事業を主要な仕事になさっていて、数々のNPOや一般社団法人、市民活動家や社会起業家を支援してきた。私はBさんと1年前に出逢った。Bさんは、そのご経験から、アバターを使い続ける限り、その姿を見た人たちが自分に集まってきて、いつまでたっても素の自分に戻ることができない、と指摘する。素の自分をさらけ出せば、その姿に共感する仲間がやってきて、素の自分で生きることができるようになってくる、というのだ。素の自分をさらけ出すのは、これからの人生を楽しく生きていくための第一歩なのだ。

 

 ◆素の自分を認める

 

 とはいえ、かくいう私も、素の自分をさらけ出すのは怖い。素の自分がどれだけ怠慢でだらしなく、煩悩まみれかということをよく分かっているからだ。私自身もアバターをぜんぶ脱ぎ去るまでには時間がかかると思っている。

 そもそも、すべての自分をさらけ出す必要があるかは分からない。べつに他人が知らなくていいことを暴露する必要はないと思う。たとえば会議などで、本当は別の意見を持っているのに、それをあえて隠してお利口さんを装ったり、上司が喜びそうな方便を言ったりするのをやめるとか、そういうところから取り組んでいこうかなと思っている。

 私自身、すくなくとも高校生までは、優等生を演じ続けてきたと思う。いや、もしかしたら大学院生の頃も。それこそ冒頭に挙げたA先生に出逢うまでは、ずっとそうだったかもしれない。そのように私を駆り立てたのは、自らの身体能力が劣っていると感じてきたことと、いじめっ子・いじめられっ子の集団から抜け出したいという気持ちが大きかった。また、私は生来か分からないが、素直な性格をしているので、たいていの先生には大変気に入られていたように思う。演じたというよりは、ほとんど学校文化にもっとも飼いならされ、染まっていたということかもしれない。

 Bさんは、素の自分をまずは許してあげる、肯定してあげることから始めてください、と言ってくれた。知らないことだらけでも、だらしなくても、まあいいや。それも愛すべき自分だ、と。今はそういう段階だということを認めるだけでいい。

 

 ◆自分を許したうえで成長するには

 

 自分のことが許せない、自分は能力がない、自分には自信がない、という人がいる。じつをいえば私自身もそうだ。そうした気持ちがどのようにして生まれてくるのかというと、それは自分の中で「こうでなければならない」という基準を設けているからだ。

 そうした基準は、だいたいの場合、外部から強制されている。親御さんかもしれないし、学校の先生かもしれないし、就活やインターンかもしれない。SNSかもしれない。しかしその基準に根拠があるのかといえば、「その人たちの主観でしかない」場合が往々にしてある。こうでなければ生きていけないとか、生きていくべきではないとか、そんなことを他人が決める筋合いはないのだ。

 振り返ると、たとえば「犯罪を犯した人は、罰せられねばならない」「殺人を犯せば死罪」などという規範も、まったくもって不変の真理などではない。「アジール」とは、犯罪者がそこに行けば罪を問われなくなる場所である。中世史研究者の網野善彦(1928-2004)は、近代までの日本の中にさまざまな「アジール」的なるものが存在したことを指摘している(『無縁・公界・楽』など)。寺院・神社や市場などは、神仏の世界とつながる場所であり、世俗との縁が切れたりつながったりする場所だった。神仏の世界がこうした場所に活力を与えていた。西洋を真似て近代国家を建設しようとした明治時代以降は、アジールが認められなくなっていった。しかし、今後、政府の力が弱くなったりすれば、そうしたアジールが復活してもおかしくはないのではないだろうか?

 それはさておき、大人がいかにテキトーな意見しか持っていないかということは、よく知っておくべきことだと思う。自分のことは自分で考えるのが一番確かだ。

 他人と自分を比べて、自分はダメだな、と思うことにも妥当性がない。まず、その人は自分が本当に尊敬できる人で、自分もそういうふうになりたいと思うのかを、冷静に考えてみよう。そうでもないな、と思った場合は、その人の生き方を参照すること自体に意味がない。

 では、その人に対してあこがれや尊敬の念を持っている場合はどうか。Bさんによれば、そういう場合でも、べつに自分はその人と比べてダメだ、と思う必要はない。そんなことを考えても、何の意味もない。自分はいまこういう段階、と冷静に受け止めて、その人に近づくにはどうしたらいいかを考え、実行すればいいだけのことだ。自分自身を悲観する必要性はまったくないのだ。