ダニーのラボ

ダニーが学んだことを書きます。ここに書かれることはダニー個人の見解であり、ダニーの所属先の見解とは一切関係ありません。

20240430_「蓮は泥より出でて泥に染まらず」

 ◆業界と自分は別

 

 蓮は不浄の池で美しい花を咲かせます。と、以前同僚の先生と訪問したレストランで、料理人の方がおっしゃっていました。 

 大学も学会も自分たちの勢力を広げたり生き残ることしか考えていない。まっすぐ自分の道を歩みたいです。私はそんな感じで、店長にこのブログに書いているようなことを申し上げたわけです。

 つい1週間前のことです。いやはや、今振り返ると、「自分だけは潔癖だ、間違っていない」と主張するのは傲慢だったかも、とも思います。

 それで、店長がおっしゃったのは記事タイトルのフレーズでした。店長はご自身のお仕事に誇りを持っていらっしゃる。でも、自分がいる業界はといえば、好ましいことばかりではない、というのです。

 もしも泥沼のような環境に住んでいても、自分の気持ちの持ち方次第で、一点の曇りもない蓮の花のような仕事ができる。

 

 ◆よい友を、よい師を持て

 

 なるほど。だが私は逆の言葉も知っています。同じ穴の狢(むじな)。類は友を呼ぶ、といった言葉です。友達の影響力は絶大で、たとえば公衆衛生学にネットワーク論を応用した研究だと、肥満の人の友達は肥満である確率が高いといった知見もある。社会ネットワーク論は一時夢中になって読みました。

 さて、また初期仏教の話になりますが、「善友性(善友を持つこと)」は、仏道に入る「兆し」として重要視されています。善き友とはけっこう広い意味で、自分を善なる方向に導いてくれる人々のことを指します。同い年の友人でもよいし、学校の教師でも親でもよい。いちばん想定されているのはお寺の修行僧かな、と思いますが。

 教師と友人を同じカテゴリに入れてしまうのは興味深い。先日、Bさんと話していて面白いなと思ったのは、小さい子どもには言うことを聞かせようとして指示を出しても聞いてくれないのだということです。Bさんにはお子さんがいて、その子はお母さん(Bさんの奥さん)のいうことは聞かない。でも、Bさんのいうことならなんでも聞いてくれる。なぜかというと、Bさんは子どもの指導者ではなく、友だちのように接しているからだとか。友だちの頼み事なら、聞いてあげたくなるもの。これを聞いて、私はとても面白いなと感じて、またこのことについて探求してみたいと思っているところです。

 ともあれ、よい友を持つ人は人格を磨きよい人生を歩める、ということです。逆もしかりでしょう。つまり、悪い友人がいたら、その人に影響されてしまうのです。

 

 ◆所属する組織にこだわらなくてOK

 

 よくよく思い出すと、先述の店長はこういうこともおっしゃいました。自分には30年くらい年上の師匠がいる。あなたも学の師匠ではない、人生の師匠と出会われますように、と。

 いま学の師匠ではない人生の師匠に出会う場は稀です。大学の中では、ほぼ出会えないでしょう(笑)。私はこのブログの最初の記事に書いた、A先生やBさんといった素敵な人たちと出会うことができました。私はフィールド系の研究者なので、調査と称して、いろんな場所に出向いてきたのがよかったのだろうと思います。

 ただ、学部生のころ、大学院進学を考える学生のために教員陣が企画した説明会が印象に残っています。大手企業で働く院卒の先輩が「人文系の院を出ておくと自分の世界ができるので、企業に就職しても組織や業界の論理に絡めとられなくなりますよ」という話をされていました。まさか専業の研究者になってこのことを思い出すとは思いませんでしたが(笑)。

 以上まとめますと、業界とか自分の所属する組織とかを超えて、自分が尊敬でき、導いてくれる人を探し、出会うことはとても大事だな、と。そうであればこそ、泥沼のような集団の中でも曇りのない判断をすることが可能となっていくのかもしれません。そういう生き方には、シビれますね。

 私は、心の中ではブッダが師匠です。だがゴータマ・ブッダはもういないわけですし、残念ながら日本のお坊さんはブッダの教えを知らない。私はほとんど本からしか人生を学べなかったわけなのですが、最近ようやく自分より世の中のことを分かっているように思える人と出会い、その師匠たちとの議論から自分の道を探しているところです。