ダニーのラボ

ダニーが学んだことを書きます。ここに書かれることはダニー個人の見解であり、ダニーの所属先の見解とは一切関係ありません。

20240405_素の自分を生きる

◆学校が社会を悪くしてきた

 3月の末に、ある支援学校のA先生と久々にお会いし、近況についてお互いに話をした。心がスッとして大変よい時間を過ごすことができた。思えば2021年の4月にA先生と出会ったことが、私の考えを根本的に変え始めたのだと思う。そのとき先生はべつの高等支援学校の講師でいらっしゃった。

 たしか初めてお会いした時、先生は「学校こそが社会を悪くしている原因なのだ」と指摘した。私は高校の先生がそんなことをおっしゃるのか!と、ぶったまげてしまった。実は先生は、もともと塾経営、NPO事務などを歴任し、最終的に「たまたま拾われて」学校の先生になったそうだ。一般的な教員のキャリアとは違っていて、先生になりたいからなった、というわけでもないので、考え方も当然違っているのだ。

 私はその後、何度もA先生とのところに伺い、お話をお聴きした。当時から私は、「大学教員の本分は研究だ」と思っており、正直、教育にはあまり興味が持てなかった。しかし、授業数が多く、「学生への手厚い支援」を売りにしている大学に勤めておれば、おのずと教育と向き合う時間は多くなる。A先生は、ちょうど「教員にならん」としていた私に、新しい時代の教育思想を教えてくれる先生だった。お会いするたびに何時間もお話を聞いていた。

 このまえA先生とお話しして再確認したのは、次のようなことだ。近代教育は国民を軍人および工場労働者に仕立て上げるための仕組みであり、学校はそのための装置として作られたものだ。戦後80年を経たいまも、当然この事実は変わらない。これまでにたくさんの教育改革が行われてきたようだが、学校はいまでも子どもたちに集団生活のルールを身体に刻み込むための装置でありつづけている。そうした状況にいれば、心理的に不調をきたす子どももいて当然である。そして学校は、そうした子どもたちが社会に出て活躍するための保障を現場レベルでやりきれているとはいえない。

 高等教育はどうか。小中高と勉強を頑張って、大学を出て大企業に入るというのが、いまだに定まった経路と認識されている向きがある。大企業は、いまだに大卒という資格によって志望者を選考するときく。それが事実とするならば、大企業をめざす若者にとって大学に入ることにはメリットがある。しかし、大企業に入れば安泰という社会は、とうに失われているはずだ。大学を卒業すれば将来安泰、などというメッセージをいまだに大学が発しているとすれば、それは詐欺ではないか?

 

 ◆「就社」は幸福か

 

 本当は若者がそうした状況をいちばん深刻に受け止めているはずだ。「近頃の新入社員は3年で辞める」といわれる。その理由として、人事組織改革コンサルタントの坂井風太氏は、心理的安全性とキャリア安全性を挙げている。キャリア安全性とは、この職場にいて自分の市場価値を高めることができるか、将来この会社がつぶれたときに自分は他社に移るなどしてサバイバルできるかどうかの判断する基準である。上司や先輩社員が無能にみえるとき、仕事が自分自身のキャリアップにつながらないと感じたとき、若手社員は辞めてしまう。それは、まったくもって筋の通った判断だと思う。

 大学は変化している社会情勢に合わせて変わるべきか否かを、いまだに決めかねているように見える。とある小学校の先生から伺ったことだが、せっかく初等中等教育を変えようと努力しても、大学は相変わらず筆記試験の結果で学生の合否を決める(いまや推薦入試が多くなり、そうともいえなくなっているのだが)。これでは教育は変わらない、と。また、キャリア教育および支援では、会社に就職し働くための慣習やマナーを教え、それでよしとする。

 それが悪いわけではない。それだけではダメなのだ、と思う。自分の会社がつぶれてもクビになっても、どうにか生き抜くということ。究極を言えば、そのことを考えなければならないのだ。

 そして、もっと根本的には、そもそも大企業で働く大人たちが本当に幸せなのかどうか、ということを問わなければならない。大人というものは、自分の暮らしに幸せを感じていないのに、自分と同じ道へと若者を誘いたがる。どうみても結婚生活が楽しくなさそうなのに、子どもや身近な若者に「結婚はまだなの?」などと尋ねる大人がいる。私はそうした人に出逢うたび、大きな違和感を覚える。それと同様に、自分が会社でしんどい思いをしているのに、若者たちも自分たちと同じように会社員になるのだ、と信じて疑わない大人たち。これはもはや信仰の域に達しているのではないだろうか。

 若者がこうした状況下で生きることに希望を見出すことは難しいと思う。現代社会で生き抜くためには、自分を殺しながら会社の言いなりになって働き、お金をもらうしかない。大人たちはしんどそうだが、それを自分たちに薦めてくるということは、生きていくってそういうことなんだな、と自分に言い聞かせる。

 

 ◆タテマエに生きることをやめる

 

 経済史家の安富歩氏は『生きるための日本史』の中で、日本人の立場主義を批判している。立場主義とは、語弊を恐れずに言えば「タテマエに生きること」だと解釈している。本音とは違うけど、上司に言われたから、先生に言われたから、こうするよりほかない。上官がいうから、気は進まないが捕虜を射殺するしかない。与えられた立場を守り、その仕事を全うすれば、生活を維持することができる。こうした生き方は、中世後期に集落が形成され、各家に村の役が与えられたことを端緒とするらしい。その後、長らく「家」を守ることが日本人の美徳だったが、近代に入り、徴兵の対象が家単位ではなく個人単位になると、「家」ではなく「立場」を守る時代へと移行する。

 こうした立場主義は長らくの間、日本社会を支配してきたが、2011年3月に起きた福島の原発事故をきっかけに、多くの人々が立場主義の限界に気づくことになった。こうしたやり方を続けていると個人は誰も幸せになれないし、日本も地球環境も崩壊してしまう。立場主義は、人々の気づきによって早晩消え去るだろうというのが安富氏の見立てだ。

 

 ◆ばかばかしい立場主義

 

 そもそも私たちはなぜ会社に入ろうとするのか。それは安心して暮らしていくための手段であり保険であるように思う。個人の力は弱く、人生の苦難(災害、不況、事故、病気などいろいろある)を一人で乗り越えていくのは大変だ。だからこそ組織の仲間入りをして、みんなでその波をいっしょに越えていこう。そういう仲間づくりの手段が、じつは就活なのではないだろうか。そうした組織(=企業)に入るのは一つの重要な生存戦略だ。

 しかし、そうした企業とて、もはや安泰ではない。だから今後、私たちはいろんなところに仲間をつくって、一つの組織がつぶれたら別の組織に移る、とか、企業とは別の形の仲間を増やすことが、必要になるのではないだろうか。そういう時代にあって、自分を偽り特定の立場を守り続けるような生き方は、もはやバカバカしいともいえる。立場主義の崩壊は、大企業が安泰ではなくなり、社会が流動化したことにも起因している。

 おじさんたちのコミュニケーションは名刺交換から始め、肩書と職務内容だけを自己紹介して終わる。立場主義を守りつづけ、定年まで会社に勤めあげたおじさんたちは、地域コミュニティのなかで居場所をつくることに大いに苦戦する。もう渡せる名刺はない。自分がよって立つものは会社であり肩書であったのだ。それを失うと、どのように生きていけばいいのかが途端にわからなくなり、他人と関係を結ぶことができなくなる。立場がないとはまさにこのことをいうのだ。

 建前の自分を育てる生き方を、いいかげん、やめにしませんか?そう仰るのが、Bさんだ。Bさんは、建前の自分をアバターと呼び、アバターを育てるような生き方を「しんどいのでやめにしてはどうか」と薦める。

 BさんはNPOの中間支援事業を主要な仕事になさっていて、数々のNPOや一般社団法人、市民活動家や社会起業家を支援してきた。私はBさんと1年前に出逢った。Bさんは、そのご経験から、アバターを使い続ける限り、その姿を見た人たちが自分に集まってきて、いつまでたっても素の自分に戻ることができない、と指摘する。素の自分をさらけ出せば、その姿に共感する仲間がやってきて、素の自分で生きることができるようになってくる、というのだ。素の自分をさらけ出すのは、これからの人生を楽しく生きていくための第一歩なのだ。

 

 ◆素の自分を認める

 

 とはいえ、かくいう私も、素の自分をさらけ出すのは怖い。素の自分がどれだけ怠慢でだらしなく、煩悩まみれかということをよく分かっているからだ。私自身もアバターをぜんぶ脱ぎ去るまでには時間がかかると思っている。

 そもそも、すべての自分をさらけ出す必要があるかは分からない。べつに他人が知らなくていいことを暴露する必要はないと思う。たとえば会議などで、本当は別の意見を持っているのに、それをあえて隠してお利口さんを装ったり、上司が喜びそうな方便を言ったりするのをやめるとか、そういうところから取り組んでいこうかなと思っている。

 私自身、すくなくとも高校生までは、優等生を演じ続けてきたと思う。いや、もしかしたら大学院生の頃も。それこそ冒頭に挙げたA先生に出逢うまでは、ずっとそうだったかもしれない。そのように私を駆り立てたのは、自らの身体能力が劣っていると感じてきたことと、いじめっ子・いじめられっ子の集団から抜け出したいという気持ちが大きかった。また、私は生来か分からないが、素直な性格をしているので、たいていの先生には大変気に入られていたように思う。演じたというよりは、ほとんど学校文化にもっとも飼いならされ、染まっていたということかもしれない。

 Bさんは、素の自分をまずは許してあげる、肯定してあげることから始めてください、と言ってくれた。知らないことだらけでも、だらしなくても、まあいいや。それも愛すべき自分だ、と。今はそういう段階だということを認めるだけでいい。

 

 ◆自分を許したうえで成長するには

 

 自分のことが許せない、自分は能力がない、自分には自信がない、という人がいる。じつをいえば私自身もそうだ。そうした気持ちがどのようにして生まれてくるのかというと、それは自分の中で「こうでなければならない」という基準を設けているからだ。

 そうした基準は、だいたいの場合、外部から強制されている。親御さんかもしれないし、学校の先生かもしれないし、就活やインターンかもしれない。SNSかもしれない。しかしその基準に根拠があるのかといえば、「その人たちの主観でしかない」場合が往々にしてある。こうでなければ生きていけないとか、生きていくべきではないとか、そんなことを他人が決める筋合いはないのだ。

 振り返ると、たとえば「犯罪を犯した人は、罰せられねばならない」「殺人を犯せば死罪」などという規範も、まったくもって不変の真理などではない。「アジール」とは、犯罪者がそこに行けば罪を問われなくなる場所である。中世史研究者の網野善彦(1928-2004)は、近代までの日本の中にさまざまな「アジール」的なるものが存在したことを指摘している(『無縁・公界・楽』など)。寺院・神社や市場などは、神仏の世界とつながる場所であり、世俗との縁が切れたりつながったりする場所だった。神仏の世界がこうした場所に活力を与えていた。西洋を真似て近代国家を建設しようとした明治時代以降は、アジールが認められなくなっていった。しかし、今後、政府の力が弱くなったりすれば、そうしたアジールが復活してもおかしくはないのではないだろうか?

 それはさておき、大人がいかにテキトーな意見しか持っていないかということは、よく知っておくべきことだと思う。自分のことは自分で考えるのが一番確かだ。

 他人と自分を比べて、自分はダメだな、と思うことにも妥当性がない。まず、その人は自分が本当に尊敬できる人で、自分もそういうふうになりたいと思うのかを、冷静に考えてみよう。そうでもないな、と思った場合は、その人の生き方を参照すること自体に意味がない。

 では、その人に対してあこがれや尊敬の念を持っている場合はどうか。Bさんによれば、そういう場合でも、べつに自分はその人と比べてダメだ、と思う必要はない。そんなことを考えても、何の意味もない。自分はいまこういう段階、と冷静に受け止めて、その人に近づくにはどうしたらいいかを考え、実行すればいいだけのことだ。自分自身を悲観する必要性はまったくないのだ。