ダニーのラボ

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20240406_日本人にとってのお酒とは

 ◆酔うことを前提とする社会

 もう誰か調べて答えを出しているのではないか、とも思うのだが、日本人はなぜこんなに酒好きなのだろうか。もっとも、酒が嫌いな民族というのは思いつかない。しかし、日本におけるお酒事情は、海外の他の地域の人々にとってのそれとはけっこう違っているようだ。

 プレジデントオンラインで、ポール・クリステンセン氏という文化人類学者へのインタビュー記事があり、そのタイトルには「日本は世界一お酒にだらしない国」とある。クリステンセン氏はアメリカの大学教員であるが、学生時代に日本に留学したことがあり、その後、アメリカの大学院に戻って日本の飲酒慣行について博士論文をまとめた(Christensen, Paul A. “Japan, Alcoholism, and Masculinity: Suffering Sobriety in Tokyo”)。

 お酒の飲み方についての日米比較をすると、たとえば、電車の中で泥酔して寝ている人はアメリカにはいない。また、酔った人の吐しゃ物を駅員さんが迅速に処理する道具や仕組みが整っている状況もおかしいという。日本は、人々が酔うことを前提に社会がつくられているようだ、と。他方で、アメリカの場合は、酔って道を歩いていると逮捕されてしまう。また、人前で泥酔することは、その人の弱みやだらしなさを見せてしまうことになる。

 

 ◆飲みニケーション

 多くの女性や若者から忌避されつつ、いまだに滅亡していないと思われるサラリーマンの慣習。お酒の席では「無礼講」。宴会は上司も部下も関係なくふだんの仕事の鬱憤晴らしをする場である。職場ではタテマエ上の話しかしないくせに、宴席でだけは本音をこぼす。しかし、翌朝には、「酒の席でのことだから」と、きれいさっぱり忘れて、なかったことになる。酒席というのは、あたかも日常の権力関係と切り離された(いや、実際には地続きなのだが…)「無縁」の空間のようでもある。「酔う」ということには、人を無縁化する作用があるのではないだろうか。「所詮は酔った人の行ったことだ、水に流そう」というふうに。もちろん、時代が下るにつれてその作用は確実に衰えているものの、未だに日本人の慣習に残っているように思える。

 

 ◆酔いの文化

 どこで読んだか忘れたのだが、睡眠不足で頭がぼんやりした状態というのは、酒に酔っている状態とよく似ているらしい。頭がぼんやりしていると、夢か現かの境界があいまいなることがある。ここで想起されるのは、能の入門書にかかれた鑑賞指南である(『マンガでわかる能・狂言誠文堂新光社)。能は鑑賞しながら眠くなってもいいし、寝てしまってもかまわない。鑑賞中の浅い眠りは、人を夢か現かわからない世界へといざなう。これは能の主旨である異界との俗世との接続という状況を導く。まどろんでいるときに私たちは外界からのエネルギーを受信するのかもしれない。酔いは神々のいる異世界とつながっている状態で、それを導くのは眠りでも酒でも構わない。そういうことなのだろうか。